笑顔を誘う「日本食」お好み焼き

ミカエラ・フェアリー


 1987年7月、取材のために初めて日本の地を踏んだ。
 小さな出版社の編集長をしていた叔父から、仕事を依頼されたためだった。
 フリーのカメラマンとして駆け出しの頃で、写真の仕事以外は断る旨を叔父に伝えた。
 書くことに自信が無かった訳ではない。
 カメラマンの仕事に集中したかっただけだった。
 週末、私は家にまで来た叔父に、
「文化は瞬間の積み重ねだから、その瞬間を切り取って表現することは楽しい。カメラマンの視点で、今の日本の音楽を切り取って伝えてもらいたいのだ。」
と熱く説得され、仕事の依頼を歪んだ笑顔で引き受けた。

 成田には叔父の友人の娘のベリンダが出迎えてくれていた。
「東京のホテルに荷物を置いたら、一緒に日本食のお店に行こうよ。」
と誘ってくれたのは、月島のもんじゃ焼き屋だった。
 目の前の鉄板で湯気を放っているスープを見て、
「生のピザみたいだね、この料理。」
と言いつつも、私は頭の中では嘔吐物をイメージしていた。
 食べてみても汁っぽさが私には合わなかった。
「ベリンダ、汁っぽさが気に入らないよ。ベースになっている味は好きな味なんだけど。」
「それなら、お好み焼きを紹介してあげればよかった。パンケーキやピザに似ているけど、味はミカエラが好きって言った日本のソースの味なの。」
 滞在中は彼女に通訳をしてもらいながら、ミュージシャンや若者で賑わうホコ天のバンドを取材してまわった。音楽的には荒削りだが、今まで耳にしたことがないアジア発の新しい音楽に興奮が覚めなかった。
 残念ながら、1987年にお好み焼き屋を訪れることは時間的に許されなかった。
 その代わりにベリンダがおみやげとして、お好み焼き用ソースをプレゼントしてくれた。
 帰国してから家族でパンケーキに塗って食べたのだが、皆に好評だった。
 日本でお好み焼きを食べなかったことを後悔した。

 2005年8月、私は家族で長崎を訪れた。
 仕事が縁で家族ぐるみで仲良くさせて頂いているオガワと、長崎で会うのは初めてだった。
「今回どうしてもお好み焼きを食べたいのです。オガワさんは、おいしいお好み焼きの店をご存知ですか。」
「それなら、私の行きつけのお店があります。九州では芋や麦を原料とした焼酎というお酒が有名なのですが、長崎では芋焼酎を置いている店が多いんですよ。お酒は好きでしたよね。」
 訪れたのは、原爆によって柱が一本になってしまった一本橋鳥居からほど近い、浜口町にあるお好み焼き屋だった。
 インターネットを通して、あるいは本等の画像でお好み焼きを見たことはあったが、三次元のお好み焼きを見たのは初めてだった。
 おいしいにおい。おいしい音。立ち上る湯気。スチール製の大きなチリトリのような道具。手際よく繰り返される鉄板とコテの金属音。1インチを超える厚い鉄板。
 食べる前から家族でわくわくしながら、調理する様子をまじめに見つめていた。
 そんな様子を見てオガワは微笑みながら私に有名な芋焼酎を勧めてくれた。
「これ、おいしい。」
 小さいピースにしたお好み焼きを食べ始めた娘は、即座に笑顔で言った。
 私も家族もとても満足したのだが、娘の正直な笑顔を見たオガワは、お好み焼きを頬張りながらとても嬉しそうな顔をしていた。
 とりわけ、お店特性お好み焼きソースは、ベリンダがくれたものよりも格段においしかった。

 お好み焼きのルーツはもんじゃ焼きにあると言われているそうだが、私には全く別の食べ物のように思えてならない。
 クレープやパンケーキ、ピザの方がお好み焼きに近いと思うのは、外国人ならではの発想なのだろうか。
 もし、私の娘がもんじゃ焼きを初めて食べたら、心から「おいしい」と言えるだろうか。
 おいしいものは自然と笑顔を誘う。

 昨年、8歳になる娘を連れて月島でもんじゃ焼きを食べる機会があった。
 娘の反応を注視しながらビールを飲んでいると、いつもの笑顔で「おいしい」と言われ、私は自らの目と耳を疑った。
 娘が勧めるので、渋々もんじゃを口に運ぶと、私にも笑顔が出て来た。
 きっと見た目の印象が邪魔をしていたのだと思う。
 この日から心からもんじゃもおいしいと感じられた。
 同行したベリンダもそんな私を見て吹き出していた。

 食卓には、長崎のお好み焼き屋のアルバイトの女の子(確か笑顔が眩しいマユミという女の子だったと思う)が撮影してくれた家族の写真が飾られている。
 その写真の中で、オガワも満足げに笑顔を浮かべている。
 そんな写真を眺めながら、時折「日本食」であるお好み焼きを懐かしく思い出している。

16th May 2011
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Michaela Fairy
(ミカエラ・フェアリー)

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